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検見川送信所をめぐって-「『廃墟』は人間の無関心を表す鏡だ」<1>
―久住コウ氏<2009年6月に収載>

さる2009年5月27日午前、千葉市稲毛区において「千葉市の図書館を考える会」主催の学習会が行われ、講師として「知る会」事務局の久住コウ氏が招聘されました。
久住氏は検見川送信所の保存・利活用を念頭に置きつつ、「図書館を考える会」の活動目的にちなんでの図書館建築についての考察、学習会の開催地かつ久住氏の居住地にちなんでの稲毛の近代建築についての考察、そして最後に『廃墟』というものについての久住氏の持論を展開しました。

「千葉市の図書館を考える会」にお招きいただき、感謝申し上げます。「検見川送信所をめぐって」と題して、約30分お話させていただきます。最後までおつきあいください。

稲毛区で行われる「千葉市の図書館を考える会」主催の学習会ということなので、以下3点に絞ってお話いたします。一つめは図書館建築、二つ目は稲毛の近代建築、最後に廃墟についてです。建築についてはプロではないことをあらかじめ申し上げます。

検見川送信所はドコモモ135選に選定されています。検見川送信所が選ばれたのは、吉田鉄郎の初期の貴重な建築であり、唯一、日本に残っている送信施設ということもありますが、市民が取り組んでいる保存運動へのエールを送りたい、という意味も込められていると聞きました。とてもありがたいことです。

「ドコモモ」というのは一般に聞きなれない団体かと思いますが、Documentation and Conservation of buildings, sites and neighborhoods of the Modern Movementの略。公式ホームページの説明によりますと、「モダン・ムーブメントにかかわる建物と環境形成の記録調査および保存のための国際組織」という意味です。設立は1988年、本部と40ヶ国以上に設けられた支部となりたっています。

ドコモモ・ジャパンはその日本支部で、1998年に日本建築学会歴史意匠委員会の下に設けられました。同年から日本の近代建築20選を選定しまして、以後、年に10程度の優れた近代建築を選んでいます。

この135選には、千葉県内の建物は3つあります。

  • 千葉県立図書館
  • 検見川無線送信所
  • 大多喜町町役場

図書館建築についての考察

「図書館を考える会」の方々にとっては千葉県立中央図書館というのはおなじみであるかと思います。

千葉県立中央図書館(1968年、大高正人設計)
▲千葉県立中央図書館(1968年、大高正人設計) ©久住コウ
千葉県立中央図書館(1968年、大高正人設計)
▲千葉県立中央図書館(1968年、大高正人設計) ©久住コウ

県立中央図書館は市立図書館にはない蔵書もあり、私も「吉田鉄郎作品集」という貴重な本を借りたことがあります。ユニークな形だとは思いましたが、コンクリートの外壁が汚ないなぁというのが正直な感想でした。ここが貴重な建物であることは、「知る会」の活動をしていなかったら、認識していなかったと思います。ただ、よく見ると、いい建物なんですよね。コンクリートのモダニズム建築というのは、レンガ造りとは違って、よさが分かりにくいものであります。

国土交通省の調査結果なのですが、「千葉県における近代建造物の解体状況」というものがあります。千葉県教育委員会が平成5年(1993年)に調査した近代建造物93棟のうち、平成18年2月現在21棟(約23%)が解体されているそうです。

こんな例は千葉に限ったことではありません。そんなことを顕著に表しているのが次の例です。

旧大分県立中央図書館(1966年、磯崎新設計)
▲旧大分県立中央図書館(1966年、磯崎新設計) ©久住コウ

ドコモモ選定82の旧大分県立中央図書館(1966年)です。日本を代表する建築家、磯崎新(いそざきあらた)の初期の代表作と評価されています。

磯崎は1960年、大分医師会館の設計で正式デビューしています。それから、6年後の作品です。磯崎は当時、東京大学の丹下健三の研究室に所属していました。ちょうど1964年の東京オリンピックの準備が一段落した頃だったようです。

そんな時に「美術手帖」という雑誌に「孵化過程」という建築論を発表しました。

「都市とは変動のプロセスそのものである。その生成には始まりも終わりもない。時間は途切れることなくつながっていて、時々に現れ出る姿は未来都市でもあり、廃墟でもあるのだ」という内容で、ギリシア神殿の廃墟の絵に近未来図を重ねたモンタージュも掲載したのです。

同時期、大分県立中央図書館の設計を依頼されます。当時は駆け出しでしたが、磯崎の父は大分の名士だったのでした。しかし、大学生の時に病気で亡くなり、父の友人、大分財界の人々が磯崎を後押しをしたのです。

大分県は見切り発車で、場所は決まっていましたが、予算も規模も決まっていないという状態。磯崎は大分県の当時人口124万人から予想される利用者数と蔵書数を計算して、予算をはじき出しました。さらに、閲覧室や書庫、設備の機能を縦にも横にも伸ばしていけるように構造を設計したそうです。

つまり、さきほどの「孵化過程」の実践版だったわけです。

磯崎は少年期、空襲で焼け野原になった大分で終戦を迎えます。それが磯崎にとっての原風景であり、一時、廃墟の絵ばかりを書いていた時期もあるんですね。

旧大分県立中央図書館の断面
▲旧大分県立中央図書館の断面 ©久住コウ

断面は「成長」と「切断」をイメージしています。大分の人口が増え、蔵書が増えれば、建て増ししてやろうと考えていたわけです。

すべては順調だったわけですが、うっかりミスで、ボスである丹下の許可を得ず、設計を発表してしまいます。これ一研究員としては出すぎたことで、研究室を出て、独立しなければならなくなります。磯崎の個人史においても、重要な建物です。

磯崎の設計事務所は「磯崎新アトリエ」というのですが、「アトリエ」とつける建築家はこれまでいなかったそうで、こんなエピソードでも磯崎の芸術への傾倒ぶりが分かりますね。

ところが、92年秋に取り壊しの話が持ち上がります。建物自身が老朽化したというよりは、書籍の収容数が限界に達し、建物の構造的にも今日的ではない(階段が多いなど)という機能面が大きいようです。

鈴木博之東京大学教授の新聞コラムが書きました。磯崎も「所感」を発表します。無念さと愛着を滲ませますが、しばらくは推移を見守ったのです。

磯崎の考えはこうでした。

建物は既に引き渡し済み。

「取り壊しか」「保存か」それを考える主体は県民、市民にあるとゲタを預けたのです。これには、建物を取り壊そうとする自治体への牽制も多分にあったようです。

続いて、日本建築学会が保存要請を行い、「大分県立図書館を考える会」が発足。「千葉市の図書館を考える会」と同じ、考える会なのですが、実はここがミソなんです。

建物の保存活動では「○○を守る会」とか「保存する会」とつけるのが一般的らしいのです。ところが、「保存しろ」という人がいる一方、「取り壊せ」という人もいる。意見が割れるんです。建築の世界で働く方でも、壊せば、新たな建築という仕事が舞い込んでくる。建築業界を考えれば、適度に循環した方が経済効果があるわけです。

ところが、最近の建築家の方々は「取り壊せ」と言わない。古い建築を残すことが大事だとおっしゃる。社会への意識が高いんですね。

ともかく、「考える会」とすることで、保存派も取り壊し派も同じテーブルについて話し合う場を作ろうとしたそうです。

先ほどは奇麗事を言いましたが、やっぱり、建築業界の意見も割れます。自分の建築を残したいというのはエゴだ。という人もいます。

ある建築家は「建築物にも死の美学、崩壊の美学がある」といったそうです。

これに、建築家の西岡弘氏が反論しています。

「建築を脳死の状態で置いておいても、しかたないという書き方をされていましたが、僕は脳死状態でも何とかして生かしておきたいという気持ちがある。ご本人もいろいろ苦労して、それで亡くなっていくのが死の美学だと思うのです。それをもう機能しないからということで、その生命維持装置を取ってしまう。これは死の美学ではない。単なる暴力だ」

と、かなりの論争に発展します。

アートプラザ内部
▲▼アートプラザ内部 ©久住コウ
アートプラザ内部

しかし、この声に動かされ、行政が動きます。大分県は大分市に譲って、新たな施設として再利用をしようという話がまとまります。95年には県が市に無償貸与します。再び磯崎の手によって、リニューアルのための設計がなされ、翌96年から工事が始まります。

運営にあたっては条例も定められ、1998年からアートプラザとして、再生。

市民アートの展示のほか、制作の場として親しまれています。3階部分には磯崎氏の作品模型、パースなどを常設展示。

「スクラップ&ビルド」の運命に晒されている近代建築の新たな可能性を提示したといえると思います。磯崎氏の初期の傑作がこのようにして残され、活用されたのは大きな事件です。磯崎建築の見直しが進み、市では磯崎建築散策マップも用意しています。

新・大分県立図書館(1995年、磯崎新設計)
▲新・大分県立図書館(1995年、磯崎新設計) ©久住コウ
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