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検見川送信所をめぐって-「『廃墟』は人間の無関心を表す鏡だ」<3>
―久住コウ氏<2009年6月に収載>

稲毛の建築

では、わが町、稲毛の建物を見てみましょう。さきほどの映像でもお分かりの通り、私が送信所に興味を持ったのはサイクリングがきっかけです。それまで、あまり町に関心があるわけではなかったのですが、調べ始めると面白いんですね。稲毛にも、結構由緒あるものがあるんです。クイズ感覚でみてください。千葉市民は郷土愛が薄いとよく言われますが、学校教育の中で郷土について学ぶ機会はほとんどありませんでした。知らないのだから、愛着なんて持つわけがないと思います。

「神谷伝兵衛稲毛別荘」(1918年)です。神谷は日本のワイン王といわれた人物です。浅草には神谷バーというのもありますね。市内では、最古のコンクリート建築ということになります。その次が検見川送信所です。ワインを寝かせる地下室もあって、かなり凝っています。稲毛辺りは高級別荘地でもあったのですが、そんなことをしのばせる建物です。

ラストエンペラーで知られる溥儀の弟、溥傑と浩さまが新婚時代を過ごした住居の一部です。「千葉市ゆかりの家・いなげ」(旧愛新覚羅溥傑邸)。和でもあり、洋もあるという折衷住宅です。コンクリート製の防空壕もあって、戦中という時代を感じますね。庭がとても美しい。市民団体がボランティアで管理、運営していると聞いています。

トラスの倉庫
▲▼トラスの倉庫 ©久住コウ
トラスの倉庫

トラスの倉庫は旧日本陸軍気球連隊第2格納庫です。気球連隊とは聞きなれない部隊名ですが、風船爆弾というのはご存知でしょう。偏西風に乗せて、アメリカ本土を攻撃した爆弾。それも、気球連隊に関連があるようです。軍都・千葉には鉄道連隊があったり、この気球連隊があったりと、特殊な役割を果たした連隊が置かれていたのです。

川光倉庫
▲▼川光倉庫 ©久住コウ
川光倉庫

この格納庫は現在、川光倉庫の倉庫として使われています。格納庫は昭和7年竣工。千葉市の戦前建築で最大。建坪は約500坪ある。高さは地上6階に相当します。第1格納庫の方がもっと大きかったようです。近くにある陸軍歩兵学校は空襲で全焼したようですから、この格納庫が残ったのは幸運だったと言えるでしょう。

この倉庫を買い上げたのは、川光倉庫さんで三代目だそうです。

旧鉄道連隊材料厰煉瓦建築
▲旧鉄道連隊材料厰煉瓦建築 ©久住コウ

千葉経済大学の敷地にある旧鉄道連隊材料厰煉瓦建築。材料廠は1908年(明治41年)に作られた煉瓦造りアーチ構造。10連アーチが非常に珍しいということです。鉄道連隊は1896年に創設された鉄道大隊が起源。中野にあった交通兵旅団が発展し、連隊となる。一時、津田沼に兵営が置かれましたが、1908年に第一大隊、第二大隊、連隊本部が千葉町椿森に移ります。千葉には軍事施設がたくさんあるのですが、それには町の発展を願い、千葉町が誘致に熱心だったという背景があります。

外観は2階建てのように見えますが、中に入ると、平屋であることが分かります。戦後は国鉄のレールセンターとして使われていましたが、千葉経済大学が土地を取得し、平成6年(1994年)に千葉県指定文化財になりました。現状は倉庫ですが、もう少し使い方はあるのかな、という気もしますが、一応は利活用されています。

最後は近代建築ではありませんが、御成街道に面する駒形観音堂にある「長沼大仏」。稲毛に大仏があるって知っていましたか? 大きさは2m36cm。大仏は1703年に鋳造されました。開眼導師は然誉上人沢春。作は浅草の鋳物師、橋本伊左衛門。この観音堂が面する御成街道は船橋~東金間を結ぶもの。慶長18年(1613年)12月から翌年の1月にかけ、徳川家康が鷹狩りをするために作らせた道です。この大仏はこの街道周辺の人々が人馬の安全と疫病を祈願するために作られたようです。背中には寄進した人の名前が刻まれていて、松戸の人も名を連ねているんです。

私自身もその多くは存在すら知らなかったのですが、こうした稲毛の歴史的なものを見ると、もう少し学んでみたいなと思うわけです。

廃墟とは何か?

最後に、廃墟について、お話します。

検見川送信所はご存じの通り、廃墟になっています。私は検見川送信所の活動を通じて、一体、廃墟というのは何かを考えるようになりました。

以下は作家・洲之内徹さんの言葉です。これは「軍艦島」という名前で知られる長崎・端島に行った時の文章です。

「廃墟は人間の営みにのみ起こる現象である。自然界は一度は失っても再生する。人間のいる恐ろしさではなく、いるはずの人間がいない恐ろしさだが、それはそれで、人間の恐ろしさといえないだろうか」

検見川送信所と銀杏の木
▲検見川送信所と銀杏の木 ©久住コウ

確かに、自然の力はすごいのです。さきほど、銀杏の木が生い茂る送信所をお見せしました。昨年冬、おそらく、建物を傷めるからという理由で大胆に剪定されています。ところが、春になって、すくすくと芽を出す。当たり前だけども、再生を果たしている。一方、建物の方は痛みが進行している。こちらは人間の手をかけないとダメなわけです。

廃墟には「薄気味悪い」「取り壊せ」という声がある一方、魅力を感じる人もいます。

それはこういうことではないかと思うのです。

建物は廃墟となった瞬間、その役割を終え、人間の支配から離れ、「死という時間」を己のエネルギーを振り絞って生き始める。そこに、ある種のエネルギーやオーラみたいなものを感じる。あるいは、濃縮した時間のようなものを感じる、という人もいます。

再び、磯崎新の廃墟論を引っ張り出します。

「都市とは変動のプロセスそのものである。その生成には始まりも終わりもない。時間は途切れることなくつながっていて、時々に現れ出る姿は未来都市でもあり、廃墟でもあるのだ」

先ほどのドキュメンタリー映像の中で、廃墟の検見川送信所と幕張の高層ビルを映したシーンがあったのを覚えている方がいるでしょうか。この廃墟も高層ビルも変動のプロセスの中に組み込まれていることです。さきほどのピカピカのビルも、いつかは検見川送信所のように朽ちてしまう可能性もある。

しかし、廃墟が出来上がってしまうのか? それは無関心が引き起こすのだと言えるのではないでしょうか?

バーナード・ショウの有名な言葉ですが、「最も罪深きは無関心だ」というものがあります。

廃墟が怖い、気味が悪いという意見も分かりますが、実は廃墟というのは、いるはずの人間がいない恐ろしさであり、それ自体も人間の恐ろしさである。ならば、廃墟というのは人間の無関心を表す鏡ではないか。1979年の閉局後、ずっと放置され続けていたわけです。「歴史的な建造物だから、大切に残していこう」という論の前に、それは非常に恐ろしいじゃないかと思うのです。そういう意味でも、廃墟となっている検見川送信所は現代社会を象徴しているのでは、と思うのです。

そんな状態だったからこそ、「知る会」と名付けたという側面もあります。つまり、「考える」というレベルまで達していなかったわけです。また、「知る」は「考える」の一歩であります。存在を知る、関心を持つ、調べる。そうすれば、自然と自分で考えるではないか。何かを知ろうと思った時に、助けになるのが図書館です。知る会の活動も、図書館なしには考えられなかったでしょう。

文化を育てる、人を育てる。非常に時間もかかるし、お金もかかるかもしれません。効果も見えにくい。ただ、不況だから単に蔵書数を減らす、新聞や雑誌の定期購読をやめるというのは、間違った施策ではないかと思います。資料が多いほど、知恵は広がっていきます。何かを知りたいという思いをくじくようなことがあってはなりません。

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