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検見川無線送信所記念碑建立の経緯
<2009年11月に収載>

建立直後の検見川無線送信所記念碑
建立直後の検見川無線送信所記念碑

はじめに

検見川送信所は1979年(昭和54年)に閉局しましたが、送信所の偉業を後世に伝えるため、当時の電電公社(現NTT)関係者の尽力により、1984年(昭和59年)に送信所跡地に記念碑が建立されました。

知る会会員を通じて検見川送信所OBより記念碑建立当時を伝える資料の提供を受け、これにより記念碑建立の経緯が明らかとなりました。

ここでは記念碑建立をすすめていくに当たっての有志による趣意書や建立を報じる新聞記事を紹介します。

記念碑建立を求める趣意書

一部、個人情報の部分を削除してありますのでご了承ください。

検見川無線送信所 記念碑建立について

東京無線通信部内 検見川記念碑実行委員会

検見川無線送信所は大正15年の開局以来約半世紀にわたり無線通信の発展に大きな役割を果して来ましたが、都市化の進展に伴う周囲の環境変化などにより、その業務の全てを名崎無線送信所に引継ぎ、昭和54年2月28日、輝しい歴史の幕を閉じたところであります

このたび、旧検見川局の関係者や先輩の方々からの強い要望もあり、検見川の伝統ある歴史と無線通信事業発展に寄与した業績を顕彰するため記念碑を建立することとして、下記により取りはこび中でありますので関係各位のご協力のほどよろしくお願い致します。

1.事業の名称
検見川無線送信所記念碑建立事業
2.事業の施行者
検見川無線送信所記念碑建立事業実行委員会
3.碑の建立場所
検見川無線送信所跡
4.建設資金
募金による
5.建立予定時期
昭和59年3月

趣意書

検見川無線送信所は、無線通信技術の黎明期とも言える大正15年(1926年)に外地との通信確保を目的として開設されました。

爾来、送信所としての業績を行うかたわら、実験・研究の施設として、短波無線電話、写真伝送技術等の開発、各種アンテナ、SSB通信方式、FS通信方式等の実用化、標準電波及び時報の精度向上など数々の技術開発にあたり、無線通信技術の発展に主導的役割を果すと共に多くの技術者を育成しました。これらのことは今日のエレクトロニクス技術発展の礎ともなっております。

この歴史の中には、昭和4年、独、飛行船ツェッペリン伯号との無線電話交信の成功、昭和5年ロンドン軍縮条約成立に際して、日、米、英、3ヶ国の首脳による記念放送が行われ、当時の浜口雄幸首相の放送が、我が国初の国際放送となり、「検見川」の名を広く世界に伝えたこと等々、幾多の特筆すべき事柄が挙げられます。

戦後は、国内無線通信、気象通信、同報通信(ファクシミリ方式)等の業務に活躍すると共に、電波法の施行に伴なう各種の技術調査を行ない技術資料を得るなど新時代への対応にも努めてまいりました。

しかしながら、都市化の進展等送信所を取り巻く環境の変化が著しく、このため、その業務の全てを新設の名崎無線送信所へ引継ぎ、昭和54年2月28日、その輝しい歴史の幕を閉じました。

90mの威容を誇っていた鉄塔は、検見川の象徴として永く市民にも親しまれておりましたが、その雄姿も今夏を最後に消え去り、一抹の寂寥を覚えるところであります。

ここに検見川局の輝しい業績を永遠に顕彰し、栄光の足跡を残すため、検見川局ゆかりの方はもとより、広く無線事業にたずさわる皆々様のご賛同とご協力を得て下記により記念碑を建立したいと存じますのでお力添を賜りますようお願い申し上げます。

昭和58年11月吉日

検見川無線送信所記念碑建立 発起人一同

1.事業の名称及び施行者

(1)名称
検見川無線送信所記念碑建立事業
(検見川記念碑建立事業)
(2)施行者
検見川無線送信所記念碑建立事業実行委員会

2.事業の計画

(1)設置場所
検見川無線送信所跡
(2)記念碑
記念碑は自然石を素材(幅1.5m、高さ1m、奥行0.2m程度)を用い、独立美術協会の故 島村三七雄 画伯作「検見川風景」をブロンズ・レリーフ化したものを嵌込む。
表題は「検見川無線局跡」とする。
(3)建立費
総額 約500万円
(4)資金
募金を原則として1口、1000円とする。
希望口数 2口以上
(5)建立時期
昭和59年3月予定

3.募金

(1)払込先
-省略-

建立を報じる「千葉日報」<1984年(昭和59年)5月1日付>

昭和59年5月1日付け・千葉日報

以下の文章は左側の千葉日報記事を文字データ化したものです(一部個人情報を削除してあります)。

国際放送初中継の栄光
検見川無線局跡地に記念碑

日本最初の国際放送に使われるなど半世紀にわたって、国際情報の中継点として活躍してきた千葉市検見川町の検見川無線送信所跡地に記念碑が建立され、このほど、日本電電公社のOBらが集まって記念碑の除幕式が行われた。同送信所は、今日のエレクトロニクス技術発展の礎ともいえ、独の飛行船ツェッペリン号との無線電話交信など数々の歴史に包まれているが、その足跡を後世に伝えようということで、記念碑建立の話が持ち上がっていた。

検見川無線送信所は、大正15年、外国との通信確保を目的として開設され、送信所としての業務のほか、実験・研究の施設として、短波無線電話、写真伝送技術の開発、標準電波と時報の精度向上など数々の技術開発の場として活躍してきた。

しかし、都市化の波が押し寄せたことにより、54年2月、茨城県古河市の名崎無線送信所に業務を引き継ぎ、現在は跡地(約7ヘクタール)の再利用計画が進められている。

この間、検見川無線送信所は、文字通り日本の送信の歴史の場として、昭和4年、ドイツ飛行船ツェッペリン号と無線通話したのをはじめ、同5年には、わが国初めての国際放送となったロンドン軍縮条約成立についての記念放送に使われており、この足跡を永遠に残そうということで、関係者の間で記念碑建立委員会が設立され、資金集めなどが行われていた。

建立された記念碑は、独立美術協会会員の島村三七雄画伯の「検見川風景」をブロンズレリーフ化したものを配し、高さ3.6メートル。全体で鉄塔を形づくっている。

建立直後の記念碑と25年後の様子

1984年(昭和59年)の記念碑建立から月日は流れましたが、その後、千葉市による再開発は進まず、周辺も含めて送信所跡は荒れるに任せる状態となりました。

建立直後の記念碑(1984年(昭和59年)4月撮影)
建立直後の記念碑(1984年(昭和59年)4月撮影)
建立25年後の記念碑と周辺の様子(2009年(平成21年)7月撮影)
建立25年後の記念碑と周辺の様子(2009年(平成21年)7月撮影)
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