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この物語は菊谷秀雄著「検見川無線の思い出」(自費出版)と史実に基づいていますが、一部フィクションもあります。

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1930年10月のスパイダーズ ~検見川無線、16日間のプロジェクトX~

Part 3

●1930年10月14日(火)

菊谷は所長室に籠って、製図を書いていた。「こんにちは。失礼します」という声と同時にドアが開いた。菊谷には、「どうぞ」という間もなかった。訪問者の名前は今井。朝日新聞千葉支局の記者だ。今井はこれまでも何度か検見川送信所の記事を書いている。

「所長、冷たいじゃないですか。今度は何をおっ始めようというのです?」

さすがは記者、耳が早い。

「何のことですか?」

菊谷はシラを切った。

「随分なお言葉で。聞いてますよ、今度の浜口首相の国際交歓放送のことです。検見川無線が請け負ったと聞きました」

「どこから、それを?」

「まあ、いいじゃないですか、それにね、記者には情報源の秘匿というのがありましてね。易々とみなさんにご披露してしまったら、しゃべってくれる方も、しゃべってくれなくなってしまう」

新聞記者という人種は面白い。今井はデスクの上に置かれた模造紙に書かれた製図を目ざとく見つけて、「これが噂の指向性アンテナですね。この弛みがカテナリー曲線ですか?」と言った。

今井もここに通うことになってから、随分、無線の仕組みに詳しくなった。今井が興味を持っていると思うと、菊谷もついつい嬉しくなってしまう。

「今回の波は38メートル。電波を発射する部分は水平に8本並ぶことになります」と説明した。

「アンテナの長さは?」

「160メートル」

「そりゃ、大がかりだ」

「これを一気に吊り上げます」

カテナリー曲線は公式によって求めるのだが、菊谷には独特の描き方があった。

縮尺は200分の1とする。

当時の検見川送信所
©菊谷秀雄「検見川無線の思い出」より

まずは地面の線を引き、柱の位置に垂直の線を描く。そこにアンテナを書き加え、図面を壁に張って、ヒューズを両端に引っ張り、弛みの長さを決める。これなら、高等数学を学ばなくても、縮尺によって、弛みを決めることができた。45メートルの継柱は、欧州向けのアンテナを設計したことがあったので、菊谷には難しいことではない。

「所長は台北、ロンドン、ベルリンとの短波無線による電話試験で既に成功を収めている。でも、今回は勝手が違うのでは?」

「というと?」

「今まではあくまでも試験。今回はラジオとして全世界に流れるわけです。挑戦はしましたが、できませんでした、というわけにはいかないでしょう」

今井は続けた。

「ラジオって、すごいですよね。庶民の手の届く値段になれば、日本の至るところから、その時起こっていることが誰でも瞬時に知ることができるわけです。そうなったら、僕らブンヤもウカウカしてやれませんよ。オマンマの種を奪われてしまう」

「そりゃ、記者さんには脅威かもしれないですね。ただ、我々もやっと純国産の送信機を完成させたばかり。期待はうれしいですが、正直、時間はかかるでしょう」

「僕はこう思うんです。アメリカは日本の技術力を試している、と。これから、もっともっと無線は重要になってくるでしょう。もし、戦争になれば、大きな武器になる。無線が世界の遠くまで届けば、東京にいながらにして、遥か遠くの太平洋の艦隊を動かすことができるわけですから」

千葉は昭和に入って、軍都の色を益々濃くしていった。それは今井が千葉に赴任してから肌で感じてきたことだった。

陸軍、鉄道連隊、戦車学校は検見川の隣、稲毛、千葉に集中している。軍人たちはいつも戦争の話ばかりしている。

その思いは、菊谷も同じだった。検見川無線が開局した頃は軍の将校たちもよく見学に来た。将校たちは「天皇陛下のために」「お国のために」と口にした。将校は26歳にして所長になった菊谷にこんなことを言ったことがある。

「そうですか、それは羨ましい。我々軍人は戦争がなければ、出世なんてできません。今は昭和5年。もうすぐ昭和9年となります。西暦でいえば、1934。その次は5年。イクサシゴロ(19345)というわけです」

これには返す言葉がなかった。

「今井さん、これだけは分かっていただきたい。私たちは戦争をするために無線を研究しているわけではない」

「分かってますよ。ただ、国の逓信のお偉方と所長の思いは違うところにあります。国は検見川無線を軍事上、大事な場所だと思っている。この建物だって、艦砲射撃にも耐えうるように作ってあるわけですから」

「私は日本の首相の声、言葉を米英の人たちにも伝えたい。言葉は分からなくても、声に込められた思いは伝わるはずです。それに、日本の技術力を見せたい。これは技術屋としての意地みたいなもんですが」

「所長、まっすぐな人ですね。だから、僕はあなたのことが好きなんですが」

「そんなこと言っても、なんにも、でてきやしませんよ」と菊谷。

「そりゃ、残念」と今井もニヤリと笑って返した。

「ともかく、今回の交歓放送のことは、きちんと取材させていただきますよ」

今井はそういって、席を立った。

今井記者は後に日本初の国際交歓放送の模様をどの新聞社よりも詳しく報じることになる。

●1930年10月15日(水)~17日(金)

45メートルの木柱を建てて、そこにアンテナを設営する。建柱は東京、千葉から応援がやってくる18日からが本番。だが、検見川無線は手持ちの資材を使って、柱を細工するなど慌ただしい作業が待っていた。

清宮、花島は人夫頭の田中を使って、支線を作った。これは文字通り、柱を支えるための鉄線で、天辺と中間部から2本ずつ出し、地面に埋め込む。細い鋼をよって、さらに電波を吸収しないように、玉碍子(がいし)で包んで絶縁する。力も根気もいる作業だっ た。

一方、通信工手の寺島と石垣は同じく人夫頭の佐久間を指揮して、45メートルの木柱を作らせ、甘藷畑に大きな穴を掘り、支線の留め木を地中に埋め込む。これらは全て同時進行だった。

所長の菊谷と工事担当の工藤技師は作業の様子を見て回った。朝日新聞の今井記者も「近くまで来たから」と言っては様子を見に来た。

10月。涼しい気候だったが、穴を掘ったり、巨大な木を繋ぎあわせたりする作業は重労働で、気が付けば、汗だらけ。所員たちは日が沈むと、海沿いにある銭湯「梅の湯」に行って、検見川の漁師たちと風呂浴びる毎日だった。

17日夕、仕事を終えた所員たちは廃材を燃やして暖を取った。農家から差し入れられた新鮮なサツマイモを火に投げ込んだ。焼き芋が出来上がるのを待ちながら、大工も所員も他愛のない話に花を咲かせた。一つの火を囲っていると、不思議なことにある種の一体感が生まれた。

目の前には、検見川無線組が作った6本の柱とアンテナが地面に並んでいる。

菊谷は「みなさん、よくやっていただきました。明日から本格的な建柱が始まります。東京、千葉から応援が来ます。彼らは手慣れていない部分もありますから、よくよく手助けしてください」と挨拶だけ済ませて、所長室に戻った。

雑務を済ませていると、工藤が報告に現れた。東京逓信局公務課線路係が柱の手配を済ませた、とのことだった。東京・木場の材木置き場から、水に浮かせたり、積んである大小さまざまな電柱を選び出して、検見川に運ばれる。

明日から、総勢100人以上の人間が検見川無線に集まってくる。菊谷は所長とはいえ、検見川無線は30人程度の規模。菊谷は彼らをまとめ、工期を守り、けがのないよう監督しなければいけない。30歳の菊谷に責任は重くのし掛かってくる。

「所長、いよいよですね。検見川無線にこれだけの規模の工事は初めてのことです」

「そのことで相談があります。君の意見が聞きたい」

工藤は「はい」と言って、来客用の黒革のソファーに座った。

菊谷はテーブルに工事現場の青写真を広げた。

「工藤君、豊臣秀吉のことは知っていますよね」

「もちろん」

「今回の工事は秀吉で行こうと思うんだ」

工藤もその言葉でピンと来た。

●1930年10月17日(金)~18日(土)

作者は嘘をついたことを読者に告白しなければならない。“菊谷は「今回の工事は秀吉で行こうと思うんだ」と言った”と書いた。

しかし、そんなことは菊谷秀雄さんの自伝「検見川無線の思い出」には書かれていない。これは筆者の想像に過ぎない。さらに言うと、朝日新聞の今井記者は実在の人物だが、エピソードもそのものは創作である。この物語は事実、自伝に基づいているが、仕掛けとしてフィクションが織り混ぜていることを覚えていただきたい。

さて、17日午後には東京、千葉の工事局から通信工が各30人ずつ駆け付け、賑やかになった。検見川無線の面々も、「いよいよだな」と表情を引き締めた。ただ、肝心の資材は届かなかったため、作業には取りかかれない。戦い前の最後の休息といったところだ。

菊谷は東京組、千葉組総勢60人を局舎の一室に集めた。検見川無線の面々、各組に配属される大工を紹介した。そして、東京組、千葉組から5人ずつ10人を清宮倉吉が担当するアンテナ班に回り、残りの25人ずつで建柱に当たるよう指示した。

「みなさん、お疲れ様です。作業は明日からで、今日はこれをもって解散とします。みなさんには検見川町民のご好意で、民家に泊まっていただきます。この後、宿舎の振り分けを、庶務課の高橋君から案内します。町の方にはよくよくお願いしています。検見川の幸を味わっていただければ、と思います」

東京組、千葉組から歓声が沸いた。仕事はなく、食事をするだけとあっては喜ぶのは当たり前だろう。

「解散となる前に、明日の段取りを工藤君から説明してもらいます」

工藤百之が前に出て、壁の青写真を指差す。

「柱は全部で6本あります。これを三等分に分けます。中央は検見川無線組、東京寄りを東京組、千葉寄りを千葉組にお願いします。放送までは10日しかありません。一刻も早く、建てられれば、その後の通信試験に時間を割くことができます。ここは一つ、逓信の大和魂を見せようじゃないですか」

東京、千葉組がざわついた。

菊谷は最後に「早く建てるに越したことはありませんが、丁寧な作業を心がけ、各組ともけがのなきよう、お願いします。私も作業を見させていただきます」と念を押した。3組に分けられると聞き、60人は色めきだった。各人とも工事のプロである。ほかには負けたくない、と思ったのだろう。

翌18日は夜が明けきらないうちから、東京組、千葉組が畑に出ていた。菊谷が様子を伺うと、2組は先に検見川組が掘った穴を参考にしながら、柱を建てるための穴を掘り始めている。

菊谷が東京組の作業員たちに「おはようございます」と声をかけると、威勢のいい声が返ってきた。

「随分早いですね」

菊谷は言った。

作業員の一人は「昨日はおかげさまでよく食べ、よく寝ました。でも、僕らは検見川に旅行しに来たわけではないですから。千葉組は6時から作業を始めると聞いたので、僕らは6時前にここに来たんです」と答えた。菊谷はその言葉を頼もしく思った。

これこそが秀吉流だった。

弘治三年(1560年)、この年の五月雨で清洲城(現・愛知県清須市)の壁が百間(約120メートル)分壊れた。

清洲城は尾張の国の要地で、当時東海一の大名の今川義元の脅威に晒されていた。しかし、修復工事は1か月経ってもはかどらない。そんな時、城普請の役を買って出たのは当時、草履取りだった秀吉である。

秀吉は1日半もあれば、できる作業だと見積もって、初日に酒飯と休息をたっぷり取らせ、2日目から働かせることにした。さらに、職人たちを班分けし、「早く仕上げた班には恩賞を取らせる」といい、競わせた。作業中は自ら陣頭指揮を執り、檄を飛ばし、昼時には殿様からの酒だと言って、振舞った。そのうちに職人たちは寸暇を惜しんで働くようになり、1か月かかってもできなかった仕事がたった2日でできたという有名なエピソードである。

菊谷のやり方はまさに秀吉のやり方と呼応する。しかし、菊谷が秀吉を意識したかどうかは今となっては分からない。

 
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