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ノベル館
Part 5●1930年10月22日(水)朝から秋晴れだった。支持線、アンテナを取り付ける工事も夕方には無事終わった。建柱は不眠不休、激動の4日間だったが、病人、けが人を出すこともなかった。それは彼らの集中力の高さを物語っている。 ●1930年10月23日(木)23日付の朝日新聞朝刊には「日本からの放送に確信はない~米放送局の苦心」との見出しが躍った。米放送局は日本からの放送は技術的な問題があり、成功の見込みを確信できないという内容だ。 菊谷は何度も読み返し、「今にみていろ。世界を驚かせてやる」と静かに闘志を燃やした。 午後、東京組、千葉組が現場を離れると、前夜までの喧騒が嘘のように静かだった。 見物人もほとんどなく、「海軍軍縮祝賀」の横断幕も、しなだれていた。 彼らを見送った工藤が「なんだか寂しいですね。昨日までのことが昔のように思える」と呟く。苦労も絶えなかったが、振り返ってみれば、充実した日々だった。 菊谷は「みなさん大変よくやってくれました。ですが、これからが私たちの本当の仕事ですよ」と言って、新聞記事を見せた。すると、工藤の表情がみるみる変わる。 「アメリカは勝手なことをいってる。所長は悔しくないのですか」 「もちろん、悔しいですよ。だから、みんなに読んでもらいましょう」 そんな効果があったかどうかは分からないが、夕方にはアンテナとの接続も完了した。新聞記事は少し緊張の糸が緩んだ検見川無線の面々を大いに刺激したのだった。 ●1930年10月24日(金)無線送信機、J1AAを担当の岸本は泊まり込みで送信準備をしている。 「調子はどうだ?」と菊谷が聞くと、「問題ありません」と答えた。 後はフィーダー、指向性アンテナが正しい方向にあるかどうかのチェックである。 送信機を本格的に運転して、レコードの音楽を流し続けた。夕方には電波がサンフランシスコに向け、飛んでいることが分かり、調整は終了。菊谷は東京にいる中上技師に電話で報告した。 夜からは送信テストだ。日本と米西海岸にあるサンフランシスコの時差はマイナス17時間。クラシック、歌謡曲のレコードをかけた。 昭和5年といえば、「君恋し」「東京行進曲」(昭和4年)、「船頭小唄」「麗人の唄」「祇園小唄」(昭和5年)などが流行歌だった。 「ハロー!ポイントレーズ受信所、アメリカ。こちらJ1AA、検見川送信所、ジャパン。感度はいかがですか」 「コンバンワ!こちら、ポイントレーズ、アメリカ。感度良好。ファンタスティック!」 24日の朝を迎えたばかりのポイントレーズは検見川の電波を探していたら、耳慣れぬ日本の歌謡曲に驚き、喜んだのだという。 「コングラチュエーション!」 検見川から1万6000キロ先の米通信士が祝福した。 所員が菊谷に聞いた。 「アメリカ人はいま、なんて言ったんですか?」 「“おめでとう”と」 J1AAの周りにいた所員が歓声をあげた。 米ポイントレーズ受信所の記録にはレコードの音だけでなく、会話、笑い声も鮮明に聞こえた、と書かれている。 ●1930年10月25日(土)菊谷は朝、自信と不安が入り交じった気持ちで出勤した。 東京からは「ポイントレーズから、うまくいったとの報告があった。明晩は愛宕山から試験放送を行うので、よろしく頼むよ」との連絡が入り、無線送信機「J1AA」の点検を念入りに行った。菊谷たちはたどたどしい英語でサンフランシスコとやり取りした。 ●1930年10月26日(日)NHK愛宕山放送局と米NBCは直接打ち合わせを行い、準備は完了。検見川送信所は機械が動くよう調整して、見張りをするだけだ。菊谷はホッとしながらも、万が一、トラブルが起こったら、どうしようかと心穏やかではなかった。 いよいよ明日午後11時20分から、日本初の国際放送が行われる。 ●1930年10月27日(月)やるべきことはやった。心配なのは停電で、電力を供給する京成電鉄には手抜かりのないように告げたし、予備の発電機も入れた。菊谷は時に大胆なこともやったが、細心の注意を払うことは忘れなかった。 熱気の籠るJ1AAを置いた急あつらえの無線電話室は念入りに掃除し、窓には虫除けの網戸がつけられた。 引き戸には「絶対入るべからず」との紙を貼り付けた。 今日、ここに入るのは菊谷、無線機を操る岸本技手、工藤、それに密着取材を続けている朝日新聞の今井記者だけだ。無用の出入りがあれば、虫が入って、機械に悪さする心配がある。 朝、どこの隙間からか、1匹の小さな蜘蛛が入ってきた。 岸本は思わず手を出して、つぶそうとした。その瞬間、菊谷の右手が出た。菊谷は手でドームを作ると、蜘蛛を大事そうに捕まえた。 岸本が菊谷を見ると、微笑んでいた。 「朝の蜘蛛は神様の使いだそうです。芥川の『蜘蛛の糸』にも出てきますね」 菊谷は言った。 「きっと、この蜘蛛は私たちに幸運を運んできてくれたのでしょう。それに、蜘蛛を見ると、なんだか他人のようには思えないんですよ」 局舎の外のアンテナ、空中線はまるで蜘蛛の巣のように張り巡らされている。 「そうですね」 岸本は答えた。 放送開始の2時間前、J1AAのスイッチを入れた。機械がうなった。 その頃、NHKのある東京・愛宕山放送局の前は黒山の人だかりだった。ラジオ放送だから、見えるわけがない。ただ、何か大事なことが日本に起ころうとしているという空気が人々を動かしたのかもしれない。 菊谷に放送を命じた中上、小野は愛宕山第一スタジオ技術室にいた。誰もが緊張していた。浜口首相が立つスタジオには日米英の国旗に五色のテープが彩っている。その前で技術スタッフが何度もマイクテストを行った。 小野は少し苦しそうな顔を見せた。 「どうした?」と中上。 小野は言った。 「胃が痛みます」 「大丈夫…、俺もだ」 外務省の斎藤博情報部長、逓信省からは畠山敏行電務局長、日本放送協会からは岩原謙三会長、意稲田三之助工務局長以下トップが顔をそろえている。無理もない。 「それにしても、長い1日です」 「検見川の連中のことを考えてみろ。彼らはこんな長い日を何日も過ごしたんだ。贅沢は言えん」 一方、検見川無線では、日勤者も非番の人間も局舎に集まっていた。どこから持ってきた四球式のラジオが置かれた。 10時に最終テストを行う、との連絡が検見川にも入ってきた。10時半、サンフランシスコのRCA局からは「感度良好、コンディション最もよし」との連絡が入って、愛宕山も検見川も一同、「いいぞ、いいぞ」と声をあげた。「オーライ」菊谷の顔が綻んだ。 愛宕山では戸山学校軍楽隊員がスタジオに入り、準備。11時20分、辻順治楽長の指揮による行進曲「戴冠式の鐘」が始まると、みんなラジオを見つめた。続いて、「星条旗よ永遠なれ」「東京」「柏葉の冠」が演奏され、11時50分ちょうど、浜口首相の演説が始まった。
検見川無線の無線電話室にも、首相の声が響いた。 「ここにロンドン海軍条約の…」 「いい声ですね。米英の人々にはどんな風に聞こえているんだろう?」 原は言った。 「言葉は分からなくても、平和を思う気持ちは伝わるはずです」 菊谷は確信を持って答えた。 「僕も、そう思います」 約8分間の演説は終わった。国際放送での検見川の役目は全て終わった。 サンフランシスコからは「感度良好。いい声だった。エブリシング・オールライ。グッドジョブ!」 と返ってきた。 通信係の原は「所長、成功です」と言って、涙をこぼした。 「よかった、よかった」 菊谷は繰り返した。ほかに言葉はなかった。今井記者はそんな様子をノートに走り書きしていた。 後はフーバー米大統領、マクドナルド英首相の演説が続き、在ロンドンの松平恒雄大使が浜口首相の演説を英語に訳し、日米英の国歌が演奏されて、国際放送の部分は全て終了である。気が付けば、時刻は28日零時を回っていた。 すべての放送が終わって、予備の発電機、J1AAのスイッチを落とした。静寂が広がった。菊谷は岸本、工藤、田久保、それに朝日の今井記者と事務室に戻った。小田、三崎書記補、宿直の職員たちが待ち構えていた。 「所長、これ」 小田が一升瓶を掲げてみせた。 ラベルには「正宗」と書いてある。 工藤がニヤニヤして言う。 「所長、これは本物ですよ」 建柱祝いで出た祝い酒のことを言っているらしい。 「知っていたのですか?」 「ええ、まあ」 のんべいの工藤は実は、中身がすり替わっているのを気づいていた。 「飲んでみると、どうも味が違う。マツヘイに文句を言って、問い詰めたら、所長の命令だと、白状しました」 「そうでしたか」 菊谷は笑った。 「さあさあ、今夜は飲みましょう」 みんなに茶碗が回された。 今井記者は机に原稿用紙を広げて、「私は原稿を書かなきゃいけないんで」と一瞬、固辞した。 しかし、所員があまりに楽しそうにしているので、「まあ、いっか」と今井記者。 「これは景気づけ。とにかく、いい記事を書いてくださいね」 「こんなにみなさんに囲まれちゃったら、悪い記事は書けませんよ。ね、菊谷所長」 菊谷はただただ笑っていた。 今井記者はこう書き出した。 「さつまいも畑に取り囲まれた無線局は、建物こそ小さいが、クモの巣のように天に張り詰めたアンテナが、薄ら寒い月明かりにくっきりと浮かぶ…」と。 1930年10月27日、あの歴史的な夜も、今宵と同じように月は送信所を静かに見ていた。
<『1930年10月のスパイダーズ~検見川無線、16日間のプロジェクトX~』 完>
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