沿革<1>

開局当初の局舎(検見川送信所職員OB提供)
開局当初の局舎(検見川送信所職員OB提供)

あらまし

開局当初の局舎(「検見川送信所史」より)
開局当初の局舎(「検見川送信所史」より)

検見川送信所は、1923年(大正12年)に建設が決定し、埼玉県の岩槻(いわつき)受信所とともに2年あまりをかけて建設され、1926年(大正15年)4月1日に開局しました。

今はすっかり東京のベッドタウンとして住宅地が広がる検見川も、当時は海沿いに漁村、街道沿いに宿場があったものの、送信所周辺は一面のサツマイモ畑でした。

開局後、検見川送信所では長中短波無線通信の研究と実用化を鋭意推進。そして1930年(昭和5年)10月27日には、軍縮条約批准に際し日米英の3国首脳による記念放送で、日本で初めての国際放送として短波無線電話送信機による送信に成功し、「検見川」の名を世界に広めました。

しかし戦後、検見川周辺に宅地化の波が押し寄せて近隣住民との共存が難しくなったことで、1979年(昭和54年)2月28日をもって閉局に至りました。

開局当初の局舎(検見川送信所職員OB提供) 写真中央の人物は建設監理者の新作義信氏
開局当初の局舎(検見川送信所職員OB提供) 写真中央の人物は建設監理者の新作義信氏

検見川送信所ができた背景

無線の黎明期だった大正初期、日本における無線局は船橋と磐城の2ヶ所しかなく、1922年(大正11年)にヨーロッパで開催された世界無線電信会議凖備会において、日本に割り当てる予定の周波長を取り消す動きが見られたため、当時の逓信省では大慌てで新しい無線局設置の予算を立てました。

そしてその計画では東京と大阪に各1局の無線局を設置することとされており、このうちの東京設置とされた無線局が、後の検見川無線送信所になったことがうかがえます。

東京・大阪に大規模無線局設置計画を報じる当時の新聞(大正12年2月20日付・大阪毎日新聞)
東京・大阪に大規模無線局設置計画を報じる当時の新聞(1923年(大正12年)2月20日付・大阪毎日新聞)
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上記記事の内容(現代仮名づかいに修正してあります)

東京に出来る大無線電信局
世界を相手に通信が出来る
大阪にも南洋相手の無電局

世界に於ける無線電信の敷設は日を追うて増加し英国の如きは真空管式、仏国はアーク式、又独逸は発電気式に依って何れも多数の大無線局を設置している之に対し我国の無線電信局は対米通信として作られた磐城無線局あるのみで(船橋無線は火花式で前世紀の遺物)十一年夏欧州に於て開催せられた世界無線電信会議凖備会に於て「日本が独り相当の無線電信設備をしないならば各国で日本に割当てるべき電波長を収消してもよい」と云われたので逓信省も対外関係上此儘にするわけに行かず経費節減の折柄にも拘らず本年夏開催せらるべき万国無線電信会議に出席の凖備として本年度の予算に無線電信局設備費と云う名目で九百万円の設備費を計上しているそこで此の九百万円で如何なる無線局が出来るかは大に注意すべき問題である

逓信省ではその内容を極秘に附し議会分科会でも九百万円の内七百二十六万円は対欧州関係の局、百十余万円は対南洋関係であると簡単に説明しているがこれこそ我国の無線電信網の第一歩で而も七百二十六万円の経費に依って我国の中央大無線電信局を設置するものである即ち磐城無線局が対米国通信として発電気式四百基なるに対して同局は発電気式一千基という大電力を有し独逸のナーウエン、仏国のボルドーと相対して世界で一二を競う大無線局となるわけで其の敷地は約十万坪に及びアンテナの長さは約七百尺の中央鉄塔を中心として八方に蛸の足の如く延び其の一本の長さは驚く勿れ何れも其の延長約一哩に亘り七百尺の鉄塔の数は約二十数本に及び世界各国の各無線局を相手にして通信し得るものであると

そして本年度の予算百万円で之れが敷地の買収をなし設計に着手し来る大正十六年度迄に之れが完成を見る計画であると

又南洋方面を受ける百十余万円の無線局というのは大阪付近に設置する筈で之れ又発電機式の発信局を設置して現在平野郷に出来つつある欧洲方面の受信局と相対する発信局たらしめ大正十三年度大正十四年度の各二百万円宛の内から醵出して大正十四年度迄に完成し之れが完成の上は欧洲の受信を取扱っている大阪無線電信局と一纏めにして対南洋の無線局とする予定であると尚其他四十余万円の経費に依る国内局というのは之又東京に設置して国内の通信をなすと之れが竣成の上は我国の無線電信局の威力を世界に示すであろうと云われている

開局当時

開局時の経費
項目 費用
土地購入費 50,000円
本館建設費 120,000円
アンテナ建設費 170,000円
送信機(一号) 290,000円
送信機(二号) 130,000円
短波送信機(日本製) 7,500円
770,000円
蜘蛛の巣のように張り巡らされた空中線
鉄塔の上に空中線がめぐり、蜘蛛の巣のようだった

開局当初に導入された設備は、まず英国製の50kw送信機(アンテナ出力は15kw)があげられます。周波数は36.5kHzで、この1台で第一発信室を占めるほどの大きさであり、1959年(昭和24年)まで使われました。

同時に日本製の6kw送信機(アンテナ出力は1kw)も設置されています。しかしこの送信機を製作したメーカーは「品質に自信がないので購入時の検査は行わない」ことを条件として発注に応じており、これだけでも当時の日本の無線技術が立ち後れていたことが分かります。

送信用アンテナは、高さ90mが6本、同75mが4本立てられました。

1930年(昭和5年)の日米英3国首脳による記念放送にあたり、米国の関係者は「米英はまったく心配はしていないが、日本だけは(技術的問題を克服できるかどうか)心配だ」との声が出ていました。しかし検見川送信所では懸命の研究改良を行い、果たして実際の国際放送実施の段階においてはそういった心配の声をはねのけ、わずか2週間で米英と遜色のない無線放送を行える技術水準まで持ち上げました。

戦前の通信事情と検見川送信所

検見川送信所の開局前夜、世界各地で多数の植民地が存在していましたが、本国と植民地を含む海外との通信は、英国が敷設した海底線通信網に頼らざるを得ませんでした。しかし「無線で遠距離通信が実用化できる見込みがある」と分かると、各国は独自の無線通信網づくりを競いました。

検見川送信所はそうした背景の中で建設されたのです。

局舎の見取り図
局舎の見取り図

検見川送信所の通信内容

海外の通信相手

以下の国や地域と通信を行っていました。

海外の通信相手
標準電波(1927年(昭和2年))
周波数や時間を合わせるために基準となる無線放送です。
同胞無線通信(1939年(昭和14年))
通信社が新聞社に対し、公平・迅速にニュースを配信するための放送です。
軍用通信
中国大陸・南太平洋と軍隊の行動範囲の拡大にともない、軍の通信対が常駐し、気象情報・大本営航空通信・対空指令・大東亜省関係の通信を行いました。(米・英など、海外との無線電話通信は、検見川送信所で実用化が達成された後、その業務は民間の会社に移されました)

国内の通信内容

国内無線(1927年(昭和2年))
関東大震災の経験から、「いかなる場合でも通信を確保する必要がある」として、国内主要5都市(札幌・金沢・大阪・広島・鹿児島)との間に直通通信網が作られました。
航空無線(1929年(昭和4年))
民間航空事業が始まると、上海・大連等の飛行場に、気象・航空機の発着場状況などを送りました。後には、航空機にも無線機が設置されました。

 

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