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沿革<2>
検見川送信所で行った調査研究と実用化技術
開局から閉局までの50年あまり、検見川送信所は各種の調査研究や実験を通して、さまざまな通信技術を培ってきました。
- 標準電波の発射(1927年(昭和2年))
- 標準電波とは、周波数や時間を合わせるために基準となる無線放送です。検見川送信所では日本初の標準電波の発射試験を行い、実用化を達成しました。
- 短波送信機の実用化(1929~1930年(昭和4~5年))
- 当時、日本の通信技術は低かったため、送信所で試験・調整・改善を行い、実用化しました。また送信所では送信機の製作も行いました。
- 水晶発振機の実用化(1930年(昭和5年))
- この頃は周波数が不安定で、天候の変化などで周波数が変調し受信側の周波数を探すのが大変でした。送信所で試験・調整・改善を行い、実用化しました。
- 逓信省型ビームアンテナの開発(1930年(昭和5年))
- 指向性(一定の方向に電波を集中すること)アンテナの開発のため、アンテナの形や長さ、送信機とアンテナの結合方法などを研究し、実用化しました。
- 諸外国との無線電話通信(1930年(昭和5年))
- 米・英・オーストラリアなどとの短波無線電話の放送に成功し、この実験の過程で貴重なデータを得ました。
- 短波無線写真電送試験(1931年(昭和6年))
- 東京-大阪間で成功、貴重なデータを得ました。これを受けて各種の発明・考案を行い、1934年(昭和9年)には東京-台湾間でも成功しました。
- 超短波電話実験(1937~1939年(昭和12~14年))
- 2年かけ、極短波(テレビ放送などに使われている周波数)の伝わり方を調査しました。
- 模写電信実験(1940年(昭和15年))
- 東京-札幌間で、天気図を(現在のファクシミリのように)そのまま送る実験を行い、貴重なデータを得ました。
- SSB多重電信電話の実験(1943年(昭和18年))
- 東京-鹿児島間で多重通信(1つの電波で複数の信号を送る)実験を行いました。
- バブルキーイング方式の実用化(1946年(昭和21年)~)
- 電波の断続の高速化に成功しました。これにより模写電信などが可能になりました。
- 高調波除去装置の実用化(1949年(昭和24年))
- 無線印刷電信に実用化のめど(1950年(昭和25年))
- この後、新しい通信方式を次々に実用化しました。同報回線のテープ複写式(A4)、FS印刷電信(F1)、ホーガン式模写電信(F4)などです。
- 6000MHzの極超短波、時分割多重マイクロ回線を設置(1956年(昭和31年))
- 400MHzの可搬無線機の伝播状況を調査(1967年(昭和42年))
なんとか電波を出して、「トンツー、トンツー」と専門の通信士を介してでも1分間に100文字しか送れなかった時代から、世界のどことでも誰もが電話で情報を交換できる時代を築き、さらにファクシミリのように写真や新聞をイメージ通り送られるところまで検見川送信所は働き続けてきました。
この技術は、新しい無線通信の分野(マイクロ波を使ったテレビ放送信号の長距離通信、電話の都市間超多重通信、携帯電話……)と引き継がれています。
街中の電話局の屋上には鉄塔が立ち、マイクロ無線通信用のアンテナが乗っています。そこには検見川送信所で培った技術と人が引き継がれているのです。
戦後の復興期と発展期~そして閉局へ
戦争によって国内の通信網が破壊されたため、短波は通信の大動脈となりました。時代を映すものとしてRC通信(不時着した連合軍航空機搭乗員遭難救助に関する通信)や復員(中国大陸や東南アジア地域に移住・派遣されていた同胞が日本に帰還すること)のための通信、そして1950年(昭和25年)には朝鮮動乱にともなう京城(現在のソウル)との回線(京城が陥落した後は釜山と)の通信などもありました。
同報無線通信、航空気象通信などが継続されるとともに、新しい通信方式に改善され、画像通信・周波数変調等も実用化されました。短波通信がもっとも活躍した時代です。
- 県庁通信
- 1945年(昭和20年)10月には、主要12都市の直通無線電話が復活し、活躍しました。
- 1960年(昭和35年)には、沖縄との通信量が増えたため、那覇との回線(F1)も開設しました。
- 警察通信
- 1945年(昭和20年)10月に、警視庁と主要7都市の警察との連絡のための専用線が設けられましたが、送信所内の労働争議が多発する中で1948年(昭和23年)、警察が独自の回線を持つようになりました。
- 船舶放送(海上保安庁)
- 船舶の安全に関するさまざまな情報(気象情報・航行警報・衛生情報)などを送りました。
- 船舶放送(新聞)
- 通信社が、ニュースを航行中の船舶に送りました。
- 防衛庁通信
- 長波(10kHz)の標準電波を利用して、海上自衛隊の通信なども行いました。
その後、電話の普及にともない県庁通信は廃止され、沖縄回線は新しい通信方式に転換、防衛庁などが自前の通信網を持つなどで回線が減少、昭和40年代は通信社の同報無線と海上保安庁の通信、標準電波が主となりました。
また、昭和30年代頃からアンテナ下の敷地に民家が建ちはじめ、住民とのトラブルが多くなりました。送信所内の職場で働いていた職員たちは「このままでは送信所が存在できなくなる。短波通信は他の通信手段が発展しても、国の施策として確保しておく必要がある。周囲の土地を電電公社(現在のNTT)が買い取り、住民に開かれた公共の広場として開放すれば、地域住民と共存できる」と主張し、電電公社に要求しましたが実現しませんでした。
結果、1979年(昭和54年)に惜しくも閉局となりました。検見川送信所はなくなりましたが、短波通信は現在も茨城県の名崎無線送信所に引き継がれています。
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