初代所長・菊谷秀雄氏

菊谷秀雄氏
菊谷秀雄(きくたに・ひでお)
1899(明治32).5.5~1992(平成4)
東北帝国大学卒業後、逓信省に入省。1926年(大正15年)4月の検見川送信所開局とともに、26歳で初代所長に着任。逓信省退官後、芝浦工業大学教授に就任。無線・電波・空中線に関する著書多数。1992年(平成4年)没。享年92歳。

弱冠26歳で初代所長に着任した菊谷秀雄氏。当時はまだまだ黎明期にあって欧米に後れをとっていた無線技術を向上させるための着任でした。若すぎる所長への抜擢ですが、一説には本命候補が着任を断ったため急遽、彼に白羽の矢が当たったという話があります。それだけ当時の検見川は東京からはるか離れた僻地であり、所員にも少なからず曲者が存在したため、菊谷氏は管理者としての役割にも苦労を重ねたと言います。

所長就任4年後の1930年(昭和5年)10月、日米英3首脳による「ロンドン海軍軍縮会議」の批准が成ったことを記念して、各国の首脳が世界へ向けてラジオ放送(「国際交歓放送」)を行うことになり、その送信所として検見川送信所が抜擢されました。それからわずか2週間ばかりのうちに、送信用のアンテナを建て、はるか洋上を越えたサンフランシスコへ向けて電波を飛ばすことに成功。検見川の名を全世界に知らしめました。この立役者が菊谷秀雄氏そのものです。

国際交歓放送に関する一連のドキュメントについては、『バーチャル展示館』の『ノベル館』で紹介している「知る会」事務局・久住コウ氏による「検見川送信所 1930年10月のスパイダーズ」に詳しく記載されています。

 

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