閉局~「知る会」発足

1926年(大正15年)4月1日に開局した検見川送信所は、半世紀にわたる歴史を刻んで、1979年(昭和54年)に閉局しました。ここでは閉局後から2007年の「知る会」発足までの動きを年表で記載しています。

日付 できごと
1979年(昭和54年) 業務のすべてを名崎送信所(茨城県)に移管し、閉局。
1983年(昭和58年)~1984年(昭和59年) 鉄塔の撤去。
1984年(昭和59年)4月 送信所跡地に記念碑が建立される。
1981年(昭和56年) 千葉市による検見川、稲毛地区土地区画整理事業スタート。
1990年(平成2年)10月 千葉市財産処分審議会で送信所問題が取り上げられる。
1991年(平成3年)
2月26日
共産党・中村敏夫市議が千葉市議会において「送信所跡に50か所残る鉄塔基礎の撤去をNTTがやるべきだ」と発言。
1991年(平成3年)
3月25日
送信所跡地と市所有地(磯辺一丁目)を等価交換され、送信所跡地の所有権がNTTから千葉市へ。
1999年(平成11年)
9月30日
共産党・中村公江市議が千葉市議会において「PTAや学校関係者、自治会の役員の方から、朽ち果てた旧検見川送信所の建物を何とか早く撤去して欲しいと要望があった。コンクリートの壁に囲まれ、築74年以上の廃墟となった建物は、薄気味悪く治安上も好ましくない。住民の安全を守る立場で、早急に撤去するように求める」と発言。都市部長は「本事業を進める上で支障となった時点で撤去する予定。防犯上問題があるとの指摘もあるので、撤去の時期は今後の検討課題とさせていただきたい」と答弁。
2000年(平成12年)~2001年(平成13年) 長田謙一・千葉大学教授(当時)が「アートプロジェクト検見川送信所」を実施。
2006年(平成18年)
7月14日
検見川町町内などが連名で「この歴史を後世に伝えるべく、記念館(メモリアル・ホール)や郷土資料館など、地域住民の交流・生涯学習活動拠点として新たな活用・施設整備を要望致します」と千葉市側へ要望書を提出。
これに対し千葉市側は以下のとおり回答。
「検見川無線送信所跡地は、新設中学校用地として位置付けられており、用地の確保は概ね完了」(検見川稲毛土地区画整理事務所)
「新たな中学校の建設については、今後の生徒数の推移を見守り、判断したい」(教育委員会企画課)
「記念館・郷土資料館等の施設整備は現在考えていない。無線送信所の役割等については、現地に説明板等を設置するなどして、後世に伝えたい」(文化課生涯学習振興課)
2007年(平成19年)
3月24日
検見川町町内など13団体が、千葉市側に「送信所跡地を地域文化財として登録してほしい」と要望書を提出。
2007年(平成19年)
6月15日
自民党・川村博章市議が千葉市議会において「地域文化財としての指定と、記念館的な施設ができないか検討してほしい」と強く要望。
2007年(平成19年)8月 市民有志による「検見川送信所を知る会」が発足。

 

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