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日本初の国際放送を報じた朝日新聞記事<1>
―岩佐悦治氏<2009年9月に収載>

はじめに

1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮条約の調印を記念した日本初の国際放送の電波が検見川送信所から発信されました。当時の首相・浜口雄幸の平和を願う声がラジオ放送を通して米英両国に向けて発信されたのは10月27日の深夜(日本時間)のことでした。

このプロジェクトの実行が決まったのは放送のわずか2週間ほど前のこと。当時、日本の無線技術は黎明期であり、先進国・米英からは「本当に3国間の放送が成立するのか」といぶかる向きがあったものの、本番当日は実にクリアな音声が彼の地に届いたという記録が残っています。

そしてその本番前夜には当時の新聞メディアも、日本初のプロジェクトの様子を克明に報道していました。

ここに掲げた朝日新聞も、国際放送を詳細に伝えたメディアの1つです。「1930年10月のスパイダーズ」には朝日新聞記者である「今井」なる人物が登場します。実際に当時の朝日新聞千葉支局に「今井」記者が在籍したのは確かなようですが、物語に書かれているように日夜、検見川送信所に通っていたのか、そしてここに掲げた記事が「今井」記者によるものかは定かではありません。しかし当時のジャーナリストたちが、世紀の一大事業を全市民に伝えるべく奔走していたことに違いはありません。

ここでは、国際放送前夜の1930年10月23日・24日・25日、本番当日である10月27日、放送翌日の10月28日の記事をそれぞれ画像で紹介するとともに、文章を現代仮名づかいに補正して掲載しています。

1930年(昭和5年)10月23日

1930年(昭和5年)10月23日付け・朝日新聞
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検見川無電局放送準備成る
大アンテナを建設

【千葉電話】浜口首相のいわゆる歴史的軍縮放送の第一線を承っている千葉県検見川無電送信所では、これがため予算1万5千円で新たに大木柱30本を組立て、高さ150尺のもの6本、3組の建設を終わり、22日はいよいよアンテナを張り23日完成して調整の上、来たる27日午後11時30分の放送時間を待構えることになったが、試験放送は去る12日から21日夜まで3回にわたって既設の台湾線を利用して行ったところ感度90パーセントを得、米国マーシャル・R・C・A会社の技師が「ヴェリー・グッド」といい終ってカラカラ笑った声まで聞こえた程の好成績を収めた菊谷所長は、これに力を得て24日頃更に最後の試験放送の準備を調えている。

1930年(昭和5年)10月24日

1930年(昭和5年)10月24日付け・朝日新聞
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条約批准書寄託式
いよいよ27日挙行

【ロンドン特派員22日発】ロンドン海軍条約の批准書寄託式は、来たる27日午前、英国外務省において日英米3国及び英国各自治領代表の手によって行われることになった。日本の御批准書は、松平大使が持参すべくアイルランド自由国だけは手続上、当日間に合わぬかもしれない。しかして日本の浜口首相、英国のマクドナルド首相及び米国大統領フーヴァ氏の軍縮記念演説は、同日午後、各国に放送される予定だが正確な時間は追って発表のはずである。

日本からの受信 確信はない
米放送局の苦心

【ニューヨーク電通22日発】27日、ロンドンにおいて挙行される、ロンドン海軍条約批准寄託式を記念するため計画された日英米連絡放送につき、中継の人を承っているナショナル放送会社から22日発表されたところによれば、放送時刻は大体グリニッジ標準時27日午後3時(即ちロンドン午後3時、ニューヨーク午前10時、日本夜半12時)より約30分間となる予定であるが、もっとも頭を悩ましているのは浜口首相の日本からの放送であって、ナショナル放送会社ワシントン連絡放送所最近のテストの成績によれば、技術上、相当大なる困難が感ぜられ、目下全力を注いで受信装置改良を企てつつあるが、27日までに成功するかどうか確信がつかず、よってコンディション不良の場合の第二段の策として、まずフーヴァ氏がワシントンの大統領官邸で演説し、続いてロンドン市ダウニング街10番首相官邸にて、マクドナルド氏演説し、最後に同所から松平大使が浜口首相に代わって演説し日本との連絡は単に英米からの送信だけにとどめんとする策も立てている。各国のラジオファンはいずれも3国巨頭の声を同時に聞くことに非常な興味をかけているので、ナショナル放送会社もあらゆる努力を払いつつあるが、目下の所では日取りも切迫しているので東京からの受信については確実な成功の見込みは立っていない由である。

首相予定変更

浜口首相は観鑑式参列のため25日午前9時、東京駅発超特急列車で西下、神戸に向かうはずだが、27日には軍縮放送をする事になっているので帰京の予定を変更し26日午後6時神戸発同8時京都着、柊家に一泊し翌27日午前8時21分同地発午後4時55分東京駅着で帰京する事となった。

1930年(昭和5年)10月25日

1930年(昭和5年)10月25日付け・朝日新聞
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軍縮記念の国際放送 3国のプログラム 日本は20分繰上の希望
批准寄託式場は記念のロカルノ・ルーム きょう御批准書英京着

27日に行われる日、英、米の3国首相、大統領の軍縮放送のプログラムは24日午前11時よりロンドンにおいて関係者の会議を開き、最後的決定を見る予定であるが、今日まで3国政府間において打合せの上、意見一致せるプログラム案は左の通りである。

27日午後11時50分(日本時間)より10分間、浜口首相の日本語放送(ロンドン時間同日午後2時50分、ワシントン時間同日午前10時、米国西海岸同日午前7時半頃)、続いて2分間隔を置いて米国のフーヴァ大統領が15分間演説し、更に2分間隔を置いて英国のマクドナルド首相が15分間放送し、更に2分を置いて松平駐英大使が浜口首相の演説を10分間英訳放送する。

しかして、従来の案によれば浜口首相の放送は直ちに東京において山形外務省欧米局第二課長が翻訳するはずであったが、中継の不明瞭を恐れてこれを取りやめ、松平大使を煩わす事となったのである。なお日本側としては日本における首相の放送時間が深夜となるので20分開始時間を早め、11時半より行いたいと希望しているから、あるいは24日のロンドンにおける会議において認められれば総てが20分繰上げられるかも知れない。

検見川無電局中継準備成る
掲げられた「祝賀放送」の旗

【千葉電話】浜口首相の国際記念放送について中継大役を承った千葉県検見川無線電信局では、その後150名の甲府が昼夜兼行で工事を進め、予定から1日遅れ24日午前中にはすべての新設備が成り今は電気をいれさえすればいつでも通話が出来るようにお膳立てが出来たので、25日夜にはこの設備を利用して第1回の試験通話をやる運びとなった。

これより先検見川中継局の能力試験のため折から台湾より上京中の総督府三宅無電部長が中央電話局に現われ、23日夜台湾淡水無電局を呼びだしたところ、有線と全く同一の聖跡をあげ、ここに台湾と内地とはじめての通話が出来、しかも1時間半の超談義にも拘わらず少しの障害もなく終ったという珍しい記録を作って大成功を収めた。

よって来るべき米国との中継送話も恐らく90パーセント以上の成績で完全に大役を果せる目安がいよいよ確実となり軍縮祝賀放送と大書せる旗は中空へ翻って来るべき記念放送日を待ちわびている。

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