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「これを残さずして何を残すのか?」<1>
―倉方俊輔氏 検見川送信所を語る<2009年2月に収載>

廃墟になっている「検見川送信所」の建築的、歴史的な価値を見直し、利活用に向けた提言を行おうと活動している市民グループ「検見川送信所を知る会」が2008年2月23日(土)、千葉市・検見川公民館で「送信所ナイト」と銘打つイベントを開催した。
検見川送信所は1926年竣工。設計は東京中央郵便局、大阪中央郵便局を手掛けた逓信省の吉田鉄郎氏。1930 年には、日本初の国際放送を行うなど、日本の通信史のなかで大きな役割を果たした。しかし、通信技術の変化、近隣の宅地化による環境の変化により1979年に閉局、以後、廃墟状態が続いている。現在は所有権がNTTから千葉市に移り、区画整理事業の中で取り壊しが決まっている。
「知る会」からのオファーを受けた建築史家・倉方俊輔氏は、春一番が吹き荒れた日中の見学会にも参加し、初めて検見川送信所を見た。同日夜の基調講演では日本の建築界をリードした逓信省の名建築を解説、デザインの求道者であった吉田鉄郎のモダニズム建築の見方、楽しみ方を示し、「検見川送信所は替えがたい建物です。これを残さずして、何を残すのかと思います」と話した。
倉方俊輔氏
倉方俊輔(くらかた・しゅんすけ)
建築史家。1971年東京生まれ。早稲田大学大学院博士課程修了。博士(工学)。
明星大学・東京理科大学・早稲田大学芸術学校・NHK文化センター・早稲田大学 エクステンションセンター非常勤講師。2006年日本現代藝術奨励賞、稲門建築会特別功労賞受賞。
著書に『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社)。共著に『東京建築ガイドマップ―明治大正昭和』(エクスナレッジ)、『ル・コルビュジエのインド』(彰国社)、『吉阪隆正の迷宮』(TOTO出版)、 『伊東忠太を知っていますか』(王国社)ほか。
現在「日経アーキテクチュア」誌で「docomomo100選―傍流の名建築」、「新建築住宅特集」誌で「近作訪問/時評」を連載。

はじめに~建築史家の役割

私は建築史家を名乗っています。「けんちくし」の「し」は武士の「士」ではなく、「歴史」の「史」と書きます。何をしているかと言うと、建築の歴史を研究しています。その建築史の大家で、東京大学に鈴木博之先生(※1)という方がおられます。鈴木先生が講演された時、私も聞きにいきました。終わった後に「すごく分かりやすくて、いい講演でした」と申し上げたら、「建築史家というのは、みんなが知識のあるところに行って恥をかいてくるのが役割だよ」とおっしゃる。つまり、建築史家は、その建物の地元に行ってしゃべるわけですが、地元の方はよく知っている。そこへ地元を知らない人が来て、話す。なんかとんでもないことを言って帰ってくる、ということだ、という意味なのでしょうね。

もちろん、冗談半分でおっしゃっているのでしょうが、鈴木先生でさえそうなのですから、今日の私なんて、その役を仰せつかったと言っても過言ではないと思います。つまり、みなさんの方がよっぽど検見川送信所のことをご存じで、より深く考えている、と思います。

では、私はどういう役割を果たすか。多分、少し違った立場から、見方を披露して、恥をかいて帰ってくるということになろうかと思います。

最初に申しておきますと、私は今日初めて、検見川送信所を拝見しました。存在は常々知っていたのですけども、東京から近くはない、しかし遠くもないという距離は、なかなか足を伸ばすことができないんですね(会場笑い)。そうこうしているうちに、その存在が危ないということを聞いて、菊地潤さん(「分離派建築博物館」主宰)をはじめ、いろんな方に引きずられまして、今日参ったということです。

まず感想を申し上げますと、予想していた以上に感銘を受けました、他にない建物だと思いました。では、それがどういう意味かということは、これから追々話していきたいと思います。

「他にない建物だ」と申し上げたときに、そこにはさまざまな意味が込められると思います。検見川送信所の場合には、まず、これを何として見るか。私は建築の歴史を専攻しているもので、どうしても「建築」として、見てしまいます。そして、デザインの特徴や、設計者の個性や、素材の持つ意味などを語るわけです。

『送信所ナイト』で倉方氏の講演を聞く参加者
▲『送信所ナイト』で倉方氏の講演を聞く参加者

一方で、検見川送信所は有数の「施設」であるわけです。日本の中でも技術的に先駆をなす施設で、それが検見川に建つということの地元にとっての意味、地域の歴史的文化財としての価値といったこともあります。施設として価値があるというのは、中に入っている機械と同じように、この建物は価値がある。いわゆる先端的な技術が投入されたものとして、中の機械と一体にして、施設として大事だという見方ですね。

「建築」として「価値」があるか、施設として価値があるか。なんとして見るか、どちらでみるかによって捉え方も変わってくる。どちらにしても大事な建物ではありますが。

しかし、検見川送信所の施設としての重要性ということは、とても私には語りつくせません。先ほどの見学会の時に、送信所のOBの方からお話を伺ったのですが、本当に知らないことばかりで、電波の送信というものは面白いものだな、と思いました。ですから、今日はそういった施設の面とは違って、「建築」として検見川送信所を見たときに、どのように価値があるのか、あるいは面白いのか、ということをお話しします。一つの面からだけ見ても、これだけのことが言えるのだという風にお考えください。

近代日本の建築界をリードした逓信省

ここからの話には3つの大きなキーワードがあります。ひとつは「逓信省」です。

検見川送信所は逓信省という役所のあり方を示すものとして、重要なものです。それは「施設」として見たときにも、「建築」として見たときにも、です。

逓信省は1885年(明治18年)に発足した役所です。「逓信」という言葉は、「駅逓(えきてい)」の「逓」と電信の「信」からなります。戦後になると「駅逓」の方は郵政省から郵政公社を経て、現在の日本郵政株式会社に変わり、もう片方の「電信」の方は電電公社、現在のNTTに引き継がれます。戦前の逓信省というのは、役所の中でも最新の技術を扱っていたわけです。「駅逓」についていえば、江戸時代の飛脚とは異なる全国的な郵便のシステムを明治初めにイギリスから導入する。「電信」はというとペリーが持ち込んだ目当たらしいテクロノロジーでした。最新の技術を主導する国家機関が逓信省だったのです。技術的な先駆性が明治からずっとあり、検見川送信所も、この流れで建てられた。大きく見ると、そういうことになります。

郵便のマーク「〒」というのは、逓信省のカタカナの頭文字の「テ」を図案化したもの、あるいはアルファベットの頭文字「T」から採って、それに棒を一本加えたともいわれます。いずれにしても、逓信省の読みから来ています。「逓信省」という言葉には聞き覚えはなくても、みなさんも知らず知らずのうちに触れているわけです。

逓信省が持っていたそうした先駆性は、建築においても現れます。今は設計は建築事務所に外注することが多いわけですが、昔は会社や組織の中にそれぞれ「営繕」という部門を持っていました。そこで自分のところの建物を設計することが通例でした。逓信省も組織の中に建築家を抱えていました。彼らが郵便局や電信局を設計していたわけです。この建築の部門が大正から昭和にかけて、日本の建築をリードしていく。逓信省の営繕課は、近代日本の建築史を語る上で欠かせない組織です。

営繕課の名建築家~岩元禄、山田守、吉田鉄郎

では、その動きがいつごろから起こったのか、逓信省にはどういう人がいたかということを次にお話ししていきましょう。

京都中央電話局西陣分局
▲京都中央電話局西陣分局(©倉方俊輔)

これは京都中央電話局西陣分局(1921年)の庁舎です。吉田鉄郎が入省する前年、大正7年に入省した岩元禄(1893~1922年)という建築家の作品です。岩元は若くして亡くなったので、作品はあまり残っていません。送信所が1926年ですから、その5年前にできたのが、この吉田鉄郎の1年先輩にあたる岩元禄が作った電話局です。今から2年前に国の重要文化財に指定されました。

これは重要文化財の中でも比較的、新しい時代のものです。デザインは当時の最先端をいっています。どのへんが最先端かというと、柱の形も面白いですけども、この上に、女性の彫像がのっています。国のお役所の建物に、女性の体の彫像がのっている。ちょっと信じられない気もしますね。つまり、それほど当時の逓信省営繕課は新しい試みができたわけです。

岩元禄という人が、非常に若くして才能を発揮して、こういったものを任されている。その背景に、さきほど触れた技術的先駆性が関わってきます。なぜかというと、これは電話局なんです。電話局というのは当時の最先端のビルディングです。今、電話局といっても別に新しい気はしませんけど、今でいうハイテクセンターみたいなのが当時の電話局だった。すると、ハイテク=最先端の表現として最先端のデザインを使うということは、まあ、それほどおかしな話ではないわけです。逓信省が最先端のテクノロジーの役所だったということと、逓信省のデザインが先駆的だったということは、あながち無関係ではないのです。そういった施設と建築の先駆性を、多くの才能が入っていって開花させたというのが大正半ばからの逓信省営繕課の流れになります。

京都中央電話局西陣分局拡大写真
▲京都中央電話局西陣分局拡大写真(©倉方俊輔)

京都中央電話局西陣分局の庁舎を、さらにアップにしてみましょう。女性のデフォルメの仕方というのが、やはり大正時代らしいですね。大正のロマンシズムというか、自由主義というか。そうした性格が、建築に現れている。だから重要文化財なのです。当時の思潮が建築に現れているということで、重要文化財に指定されたわけです。

脚注※1
鈴木博之(すずき・ひろゆき)氏。東京大学大学院工学系研究科教授。工学博士、建築史家。1968年、東京大学工学部建築学科卒業後、大学院に進む。1974~1975年、ロンドン大学留学。1978年、東京大学助教授を経て、1990年に教授就任。2005年に紫綬褒章受章。
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